私の大切に思っている人の中に、死にたいと思って自殺を考えたことがある人が数人います。実際に自殺した人はいませんが。彼らが死にたいと思った事情はそれぞれですが、動機は共通していて『絶望した・疲れた』ということでした。
彼らに私は『死にたい』と言うことを直接的ではなくとも言われたことがあります。私は彼らのことを愛していますし、彼らも私のことを愛しています。そんな私に『死にたい』と告げる、疲れているんだなと思いました。
私はどう返答してよいか一瞬ためらいましたが、それだけ死にたい、消えてなくなりたい、終わりにしたい、そんなふうに思うだなんてよっぽどのことがあるんだろうと思い『死なないで』とは言えませんでした。『死なないで』、それは私のエゴです。彼らがいなくなったら悲しいですから。
私は『あなたがそこまで思うなら私は止めることはできない、でも私はあなたがいなくなったらすごく悲しい』とだけ伝えました。
すると私に『死にたい』といった人全員の目が潤んでいました。私はその時は笑ってごまかしました。帰って泣きました。あなたがいなくなったら悲しい、寂しい、生きていけないかもしれない、と。もっと私に頼って欲しいけど、頼れない事情が各々あるのが歯がゆくてなりませんでした。私は本当に悲しいです。
私は彼らがまだ生きているうちに、なるべく会おうとその時思いました。チャンスがあるならなるべく会っておこう、と。それは彼らを気遣っているわけじゃなく、私のエゴです。彼らに会えなくなるのが寂しいからです。いついなくなってしまうかわからないからです。
こっからオカルトです。
彼らに冗談で『死ぬにしても自殺はやめた方がいい』と伝えました。なぜなら自殺した人はその場所で自殺を繰り返すと言われているからです。
飛び降り自殺なら、飛び降り続ける。首吊りなら首吊りを続ける。だ、そうです。睡眠薬なら…どうなるんだろう。とにかく、その場所で縛られるそうです。成仏できないだなんて、そりゃ怖いよね、と笑って伝えました。仏教的に言えば輪廻したらまた会えるかもしれないのに、自殺なんかしたら生まれ変われないかもしれないじゃないか、ということです。
重い話をごまかすのに最適な話題でした。
まぁ本気で死にたいなら死んでいると思います。いつ死んでもいい、とは思っていると思いますが。
いつ死ぬかわからない、と思うことは大事かもしれません。